VQ−1’S(EC121・EP−3・E(T、R)A−3) in NAF 厚木
from1973ーto1975
1.EC−121
VQ−1の121はなかなか思いで深い存在です。’73〜’74というのは何度も書いていますが米軍機の飛来全般が少ない時期でした。
一日、寒風吹く中、エンドで待ち惚け・・・・何てことは一度や二度のことではありませんでした。36枚撮りに長巻のTR−XやPLAS−Xを
切ってつかっていたフィルムが一ヶ月以上も持つ(今みたいに一月一回の出撃じゃないんだよ)、1日で何回シャッター切るか覚えて
いられるくらいの飛行機しか降りない毎日でした。そんな中このVQ−1の「121・PR27」は毎日のようにミッションで飛行し、朝は8:00前
夕方は17:00過ぎには戻ってきたものです。「あ〜ぁ、121も帰ってきたから、今日もお終いだね。」と何か撮れないかと粘る私たちに
引導を渡してくれました。
VQ−1は当時グァム島にあるNASアガナをホームベースとして、太平洋方面の電子偵察を受け持っていた部隊です。共産圏(懐かしい呼び方ですが)
との接点に近い場所に位置する日本(厚木)を足場に飛び回っていたようです。厚木には数機が分遣隊のように居着いていました。
そんな中で73〜74年に一番お目にかかる機会の多かったのがこのPR−27です。
EC121M PR 27 RW19 |
NAVYでは「ウォーニングスター」という立派な正式名称がありますが、原型となった旅客機「コンステレーション」があまりにも有名でピンときません。
さらに仲間内では「ワン・ツゥー・ワン」で呼ばれその流れるようなシルエットから仲間内でも人気の飛行機でした。
EC121M PR 24 RW19 | EC121M PR 25 RW01 |
毎日、比較的お目にかかることの多い飛行機というものは、とかく「また撮れるから」なんて言って撮影のチャンスがやってきても
野球を続けていたり、ちゃんと撮っていないことが多いものです。なんか、どれもこれも同じような角度で今思えばちゃんと撮っておけば良かったと残念です。
27番が張り付いていましたが、この24・25が27番とたまに交替で厚木からミッションを行っていました。24・25が暫く続くと「あれっ、27はもうつぶれたか?」
なんて言ってるうちに、またちゃっかり27番が復帰する・・・そんなことを繰り返していたような気がします。
C−121J PR 50 RW01 |
背中とお腹に大きなレドーム付けたのが定番になって目に焼き付いている私には何となく、物寂しいんですがこいつが通常の形なんですよね。
ボロボロボロっとレシプロエンジンの音を立てながら優雅に降りてきたものです。
胴体が細く、足の長い「121」は貨物輸送には向かないところから、空軍でも最後はレドーム抱えて飛ぶEC121T辺りが横田にたまに来ていました。
NAVYでの「121」の後継機は後で紹介する「EP−3」になります。2001年の今でも「EP−3」は現役のようです。
「ワンツーワン」に変わって電子情報収集の役目を与えられたのが21世紀でも現役ばりばり対潜哨戒機で活躍中のP−3オライオンです。
121の後継機としてP3Aの2機が改造されたのは1969年のことです。当時まだプラモの世界で第二次大戦のドイツ機が好きでBf109だ
Fw190だと騒ぎまくって新橋のポストホビー辺りで「プロファイル」なんていう小冊子を買いあさっていた頃のことでした。
「航空ファン」誌とのご対面もこの頃だったんですが確か表紙の写真だったと思いますが?このEP3が怪しげな塗装で掲載されていて
「ギョッ」とした覚えがあります。残念ながらこの’73〜’75という期間はチョィト迫力のおちる塗装でした(×_×;)シュン。
EP−3B PR 31 | EP−3B PR 32 |
ごらんのように通常のP−3と同じガルグレー下面・ホワイト上面の塗装ですが、’69年当時は下面を黒塗りとして、その怪しさを
際だたせていました。まぁ怪しさは塗装だけでなく外観からも十二分に感じられると思います。
EP−3E PR 36 |
’73年当時にVQ−1でよく見られた垂直尾翼にブルーの帯とその中にコウモリのマーキングです。
なかなか、迫力の外観でしょう。121の改造機に比べると大分洗練されてきてる感じがします。爆弾倉後の大きなレドーム、背中にしょった
垂直尾翼の前縁フィレットから続くバルジ、「対戦型ではないよ」と誇示するかのように途中で切り落とされたマッドコーン。P−3の改造型として
よく知られるVXN8のRP−3が外観上の違いがあまり感じられないのと打って変わってこちらはかなりの変化が見られます。
改造機数も少ないEPがこれだけ見られるのも(そして今でも・・)VQ−1という特殊な任務を帯びた部隊があったおかげですね。
この飛行機はなかなか大きくて存在感のあるとっても飛行機らしい飛行機だと思います。昨今の戦闘機のようにコンピューターがメカニカルな面を
バッチリ押さえている戦闘機達と違い、飛ばすためには主翼は尾翼は、と力学的に理に適った作りがしてあるからだと思います。
A−3もこのVQ−1のDETが厚木に、もしなければこんなに見ることができなかった飛行機です。艦載機としてみられたのは電子偵察と給油機を
兼ねたEKA−3Bが撮影できただけでした。勿論、重攻撃機としての姿が本来の姿ではありますが色々な派生型が撮影できたのはVQ−1のおかげです。
TA−3B PR-0 & PR-00 |
TA3はもともと爆撃・航法士の訓練用に作られた派生型ですがA−3自体が攻撃機としての現役を退く中、TA−3も本来の練習機としてではなく
このVQ−1等で連絡及び技量維持訓練用に使用されていたようです。この2枚の写真で尾部の形が異なっていることが判りますが、
これがA−3の外観上での変化の大きな点になるようです。これは開発当初攻撃機として任務に就いた際に迎撃を受けたときの護身用の機関砲の
なごりです。後に機関砲よりECMによる対抗の方が効果があるとの判断から機関砲ははずされています。もっともこのTA−3には当初から
機関砲の装備はなかったようですが・・・。
写真偵察型のこのタイプもアガナから時々飛来していました。この形のA−3はグレー3色の迷彩塗装でこの期間の最初の頃(72年から
73年始め)は飛来していましたが’73の後半に撮影した下の写真の頃は通常のガルグレー&ホワイトの塗装に変わっていました。
迷彩も1度お目にかかったことあったんですが、雨でかすむランウェーから飛び出してきて雨でかすむ19の空にすっ飛んでいって
しまいました(×_×;)シュン。後ろ向きのやたら高い離陸のネガが1枚だけありました。
RA−3B PR−42 |
前部胴体下のフェァリングにカメラが収められています。
総数で4機ほどいたと聞いているRA-3ですがお見せできるような写真はこの1機だけです。この2枚は当日に降りて上がったもので
実質的にまともなRAはこの日しか見ていません。
他の機体はティルにマーキング入ったりなかなかおもしろいRAなんですがこの42番に限ってこんな塗装です・・・・。
スカィウォーリャーの電子偵察機型です。この飛行機がVQ−1の主力でした。モデックスNOで「16」迄、見たことがあります。
(勿論、欠番もありますが・・)部隊の任務が任務ですからあまり派手な塗装も・・・と思われがちですが、
丁度ベトナム戦争の終了の時期と言うこととこの撮影期間後にアメリカの建国200年祭があったりでなかなか
アッと驚くようなカラーリングもありました。
但し、この時期のメイン・フィルムはパナトミックでした。カラーリングをお見せできないのが残念ですm(_ _)m。
しかし、カラーリング以上に興味ある、派生型のアンテナばりばりの様子は「白黒」写真でも十分に理解していただける
と思います。撮ってるようで、案外撮れてない・・・そんな感じのする「A−3」達を覧下さい。
モデックス順にとも思ったんですが見かける機会の多かった(撮影枚数の少ない??)、機体から行こうかな。
EA−3B PR 16 |
take-off RW01 |
このPR16番にもお世話になりました。PR27の121と同じようにミッションを繰り返していました。
コックピット下方にある3枚のブレード・アンテナなんて、とってつけたような、付け焼き刃のような
かえって不思議な迫力を感じさせてくれます。毎日ミッションを繰り返す16番を「あの機体は世界的には
絶対に珍しい飛行機なんだ。」とヒコー少年達は言いながらも野球や○○札の手を休めようとはしませんでした。
返って誰もいない時にはみんな結構撮影していたんじゃないですかネェ。雑誌にも素晴らしい写真が
たくさん残っています。「なにぃ。16番の着陸なんか撮るのーーー?」という仲間の声が気になっちゃうんですよね。
*垂直尾翼にバニーを書いた「16」番がありましたので追加しておきます。
EA-3B PR-14 | EA-3B PR−04 | EA-3B PR-06 |
強いて言えば、121の24番にあたるくらいの感じかなぁ。まぁ、16番とはミッションの内容が異なるでしょうが
16番と一緒によくお見かけしたのがこの14番です。なんせこちらは16番ほどの外見的インパクトもないモンだから、
今回写真を探したらこれ1枚しか出てきませんでした(×_×;)シュン。
次回からはマーキングの入ったA−3達の登場です。
まずは、PR04番からです。垂直尾翼に書かれたプレイボーイ・バニーVQ-1のトレードマークなんですかネェ??
コウモリマークが部隊のトレードマークだと思います。でも、このバニーのマーキングはポピュラーな物でした。
PR06の垂直尾翼に書かれているのは「ミサイルに載った、スヌーピー」何ですって。こいつを撮ってキャビネに焼いて
お友達(口の悪いがつきますが・・・)に「ミサイル???スヌーピー???嘘をつけ、こんなのどう見たって”釘に綿くず”
にしか見えない。」とか言われました(×_×;)シュン。でも、ピントは悪いしぶれてるし確かに・・・・悔しいよーーーー。
EA-3B PR−007 |
こいつは尾翼のマーキングはポピュラーなバニーマークなんですけどモデックスの#7が「007」になっている
という何ともアメリカンな(なんで007がアメリカンなのかは???)機体です。「00」が目が回ってる見たいです。
このA−3という飛行機はT/Oが低いのがマニアの間で人気でしたが、ほ−−ら低いでしょう。どちらもミノルタ
200oF4.5という昔の相棒で撮ったショットです。「このレンズ・このカメラで撮ってダメならしょうがない。」と
思えるくらいに撮り込みました。レンズボディは焼けていろが変わっていました。
この頃は今と違って撮影できれば「写真の上がり」は自信がありました。撮れさえすればそこそこ「決まる」そんな
自信がありました。今はもう、それこそ「下手な・・・・・も数打てば・・・」そんな感じです。
EA−3B PR−7 |
この「7」番は’74年の夏にお披露目になったハデハデ塗装機です。スライド撮ってればお見せできるのに残念です。
キャノピーの後ろには「たすき掛け」垂直尾翼には、ほぼ全面と言っていいほどのブルーのラインが入り、これこそ
VQ−1のシンボルマークでっかいコウモリが書かれています。
こいつが「厚木」に降りた日には家まで電話がかかってきました。「すごいA−3が降りたよ。」「エッ、艦載機?」
「PRだよ。」「なーーーんだ、PRか。」「それがさ、塗装が凄いんだよ・・・・・・」「でもPRなんだろ。」とまぁこんな感じの
やりとりがあって・・・・基地でご対面したのがこの「7」だったんです。感想は「綺麗、格好いい、PRらしくない」と
いった評判だったと思います。白黒でハッキリ判らないでしょうけど結構良いでしょ??この機体胴体の帯に2列に
分けて文字が書かれています、文字の意味はスラングらしいんでcutするとして、この文字が読めるかどうかが
写真撮影の腕の良さを・・・・とマニアの間で盛り上がりました。この頃35oに飽き足らなくなった厚木の
諸先輩達はペンタックスの6x7が流行っていました。その写真といったらそれはもう、何というか強烈でした。
隅から隅までバッチリピント、まるで絵はがきのようでした。帯の中の文字なんて「ハッキリ、クッキリ」でした。